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2012年3月10日 (土)

東日本大震災当日の僕

いまから1年前の2011年3月11日、東日本を観測史上最大の地震が襲った。

阪神大震災は地震後の火災が被害を拡大させたが、東日本大震災は地震の破壊力もさることながら津波の破壊力が国民を圧倒させた。ネット上には個人が撮影した津波の映像が続々とアップされ、度肝を抜いた。パニック映画のような俯瞰視点ではなく、個人の視点で撮影された津波は、それまでの津波のイメージを一変させた。爆心地のような光景が広がるかつての市街地を見るだけでも相当な衝撃だが、人が、車が、波に流されるそのリアルな視点から撮影される映像は、これまでの社会には世に出てこなかったものばかりだった。
被害はそれだけに収まらず、その後の原子力発電所の事故が経済に与えたダメージは、今なお癒えきらない。

僕が当時いた新浦安は、沿岸部を主に深刻なダメージが生じた。
液状化、地盤沈下、電気や水などのライフラインの断絶。

しかし関東都市圏における生活は(ミクロの視点はさておいて)以前の生活水準に戻った。
公共交通機関は正常どおりの運行が行われてる。
趣味のジョギングも、恐怖感なく行うことが出来る。

あれから1年が経った。
当時のあの激しい衝撃の記憶は、かなり薄れてしまっていた。


■ 地震発生、その時

3月11日14時46分。

そのとき、僕は上司と一緒に新浦安オフィス近くの居酒屋でランチを食べ、食後のお茶を飲んでいた。ほうじ茶だったように思う。ビルの2階にて。
僕が上司をランチに誘ったのは、当時の仕事を辞めて転職活動を行う旨を宣言するためだった。それまでも機会あるたびに相談はしていたので、上司にとっては驚きではなかった。それどころか、上司自身も疲労とストレスが蓄積しており、同情的な態度だった。

そんなわけで僕らは傷をなめあいマッタリとしているときに、初めの衝撃を感じた。
最初は、おや、という印象。僕らが浮かべた苦笑が、やがて凍りつく。これはいつもの地震と違うのでは?
やがて激しい横揺れがはじまって、まわりの日本酒や焼酎のビンが次々に床に落ちて割れた。「火を止めて!」と厨房から叫ぶ声がする。
ややパニックになる上司(女性)。それがかえって僕を冷静にさせ、僕は机をしっかりとつかみながら(もぐりこめるようなスペースはない)、周りを観察した。天井が崩れやしないか、そういえば店の外の天井はガラス張りだったな、厨房の人たちは適切な動きをしているか、机のお茶はこぼれて上司の服を汚しやしないか・・・。
twitterのタイムラインでは「地震なう」が流れている。

やがて揺れは徐々に収まっていった。懸念されていた天蓋のガラス天井はしっかりとしている様子だった。
避難しなければ。店内の誰もが怪我をしていない様子を確認して、律儀に清算を行い(払ったのは僕らだけだった)、さっさと外に出た。
ビル内の各テナントのスタッフが避難口へ誘導している。ちょっと驚いた。すごく適切な動きをしているではないかと。もしかすると店長クラスなのかもしれないけれど、こういうのってちゃんと機能するんだな、立派だなぁと感心した。

エレベーターやエスカレーター(その天井がガラス)を使用することは出来ないので階段を使用してビルの外に出た。
近くの新浦安駅のロータリーが避難場所だった。すでに多くの人たちが集まっており、心配そうに身を寄せ合っていた。徐々に回りのビルから人が出てきて、人数が増していく。
出て、すぐ気づいた。液状化が起きている。

東日本大震災 液状化


その後も短時間に余震が続く。
僕のオフィスのあるビルが、ゆらりゆらりと揺れている。僕のオフィスは16階にある。あとで知るのだけれど、現場は相当に揺さぶられており、相当なパニックになっていたそうだ。

駅近くのダイエーの建築物にいたっては、不自然に、不気味に揺れていた。言葉ではうまく説明できない・・・ユニット単位で区切られたその建物が、その一辺が揺れで骨格が外れてしまいそうな。
「離れてください!」、警備員の大声が響く。あまりに近くにいる人には実感できなかったかもしれないが、距離をおいて見れば、離れなければいけない状態にあることは明白だった。

僕は、この事態がうまく実感できなかった。
寒さと異常に落ち着かないそぶりの上司を片手に抱いて、もう一方の片手のiPhoneでヨメに連絡を試み(電話もメールもつながらない)、しかし、事態をつかみ取れなかった。
まわりの人たちも似たようなものだった。素直に恐怖をあらわす人もいたけれど、お茶らけたそぶりを見せる人たちもいた。「おい、ダイエー、あれ見て!危なくね?(笑)」。確かに異常な動きをしている。それゆえに、笑ってしまうのだ。

その後その推測は幸いに外れていた事が分かるのだけれど、当時は「これは東京も深刻な被害が生じているに違いない」と感じた。
地盤がここまで破壊され、新しいオフィスビルがあれほど揺さぶられるほどの衝撃ならば、あるいは古い建築物がまぎれる都心は一体どうなっているのだろう、と。

やがて嫁とメールで連絡が取れた。涙がドッと流れた。冗談ぬきで、腰が抜けそうになった。
実家の母や、一人暮らしをしている妹たちともメールで安否確認が取れた。

しかしオフィスにはなお電話はつながらない。回線はパンクし続けている一方で、twitterは何事もなかったかのようにつながりつづけていた。貴重な情報源だった。

東日本大震災 ひとびと

■ オフィススタッフと合流し、避難

あれだけの揺れならば、ビルの警備室主体の避難誘導があるだろう。オフィスに戻るよりも、避難誘導先を推測してそこで集合を試みたほうがいいだろう、と上司と話した。
ビルの避難階段でしばし待ってみたが、知った顔がない。ビルの周りをあちこち走って探しているとやがて他チームのパートタイマーを見つけた。お互いの無事を喜ぶ。
聞けば、近くの公園に移動しているそうだった。そのパートタイマーは現地在住なので点呼を終えて帰宅途中だったらしい。

もう少し苦労して、同僚達と合流した。道路はどこも液状化により水びたしで、僕らの靴はドロだらけになっていた。
オフィスはやはり相当な揺れだったのだが、幸いに怪我人はいなかったのだそう。みんな興奮している。「コートを持ってきましたよ!」と同僚が上司にコートを渡す。僕のコートは持ってきてくれなかったみたい。ついでにバッグもオフィスに置き去りだ。

ビルはしばし立ち入り禁止となっており、点呼も終わったので上司と相談し、帰れる人は帰宅の指示となった。
僕の住む南行徳は新浦安から徒歩60分の距離、近場の人と一緒に歩いて帰ることにした。
途中、「首都高速湾岸線」という大きな道路を横切る歩道を渡る。
歩いて帰るときはいつも通る道なのだけれど、ここで地震の衝撃をあらためてみた。

東日本大震災 坂道のズレ

坂道の一部が崩れて段差が生じていたのだ。
乗り越えようとして、静止させられる。「危険です!」

迂回して進む。
そう長くかからず、新浦安駅周辺のダメージが、実は局地的なものだったことに気づく。
あの液状化が、破壊されたアスファルトの隙間から湧き出るあの水、ドロが、みるみる姿を消す。周辺の人々や車の動きは落ち着かない様子なのだけれど、風景を切り取ってみれば、ほとんど「日常」だった。

帰宅してみれば、南行徳は平穏そのものだった。
本棚が崩れることもなく食器棚から皿が飛び出すわけもなく。ライフラインも全て通じていた。もちろんそれは幸いなことであって、ひとり留守番をしていたヨメが怪我をしない結果となったのだ。

■ 自宅待機~出社

ヨメの無事を確認し、テレビに食らいつく。
道中はiPhoneで確認できる情報には限りがあり、日本に一体何が起きたのかを知りたかった。

テレビでは、津波の映像が流れていた。
画面の隅には、日本列島が表示されており、その東側全域に津波到達の危険性が表示されていた。時おり表示される津波の高さは、信じられない数値が記載されていた。

阪神大震災のときは火災に見舞われる都市の映像だった。信じられなかった。
今回の地震も、信じられないものだった。

自宅には義理の妹が、日本語学校の同級生を連れてきていた。
慣れない日本という海外で、日本人ですら体験したことのないような地震に直面した海外留学生。

これからどのように行動すればいいのかを話し合っているうちに、iPhoneが鳴った。
帰宅できなかった同僚がオフィスに戻ったところ機器が生きていたため、再開したいという連絡だった。
正直、その時僕は家族を置いて職場に行くことを迷った。でも、行くことにした。
あの本震以上の衝撃はないだろう、一般にいって余震は縮小していく傾向にあるのだから。本震で絶えたこの住宅なら、家族は不安だろうが新たな被害が出ることはないだろう、と踏んだ。

この事態にスーツで行く必要もないだろう。私服に着替え、さらに防寒のために厚着して部屋を出て最寄り駅まで歩いていった。
普段利用するバスは動いていなかった。しばらく待ってみたけれど、一向にこないので、あきらめて走っていくことにした(寒いので身体が温まるし、靴を履き替えているので苦労はない)。
途中コンビニをのぞいてみたが、食べ物らしい食べ物はすでになくなっていた。同僚向けに買えるのはスナック菓子程度のものだった。また、途中の家電ショップで小型のLED懐中電灯を4個買った。
このLEDはその後いい活躍をした。新浦安に近づくにつれ、外灯が消えていく(停電している)。液状化の水はまったくひいておらず、地面が全く見えない・・・というか周りが真っ暗なのだが、LEDで照らすことでなんとか足元をぬらすことなく先に進むことが出来た。

ビルに到着し階段をヒイヒイいいながら16階へ上がる。
オフィスに入ると、もう、しっちゃかめっちゃかになっていた。
机の上にあったあらゆる資料が床に散らばっている。PCも、なにもかも。
壁面の書類棚は倒れている。
違う区画にあるサーバルームは、ラックごと倒れていた。システム担当者がどうしたものかとながめている。
これで怪我人がなかったことは、本当にラッキーだった。

そのくせ、PCも電話交換機も生きていた。
僕と同僚1名、クライアント常駐の1名、計3名でとりあえずの整理を行い、PCを起動させ、電話交換機にログインした。

入電はとても少なかった。

僕の当時の仕事は、たとえば「水が出なくなった」などの生活上のトラブルが入電するコールセンターだった。
震災地は、もちろんそんな状態に陥ってるはずなのだけれど、それ以上の被害があって電話をするどころではないのだろうと想像した。
新浦安のような都心においても同様と思われるが、考えてみればそもそも僕らのオフィスのある一帯が電話がつながりにくい状態にあるのだった。仮につながって「震災で断水している」といわれても、僕らがどうこうできる問題でもなかった。
ときおり、九州や関西から入電がある。全くほのぼのとしている。新浦安と南行徳は5kmほどの距離だったのだけれどあれだけの違いがあったのだ、彼らにすれば、「まさかぁ」という感覚なのだろう。

そうはいっても人手が足りない。
近くに住む男性スタッフ(独身、一人暮らし)に電話をかけ、出勤をリクエストした。やはり彼も最初は逡巡したが、事態を理解してくれた。時間がかかったが、オフィスに来てくれた。

あらためてオフィスの整理をしながら、あるいは入電応対をしながら対応を行う・・・。
その頃にはUSTREAMでNHKが流れていた。僕らはその映像を横目に「ひどい」などとつぶやきながら事態を把握しようとしていた。
やがて音声が伝える。
「津波が引いたあとに、200~300人以上の死体が発見されました」。みんなが息をのんだ。
それまで「被災する中で仕事をしている、これがノブリスオブリージュかな」なんていい気になっていたが、ぶっ飛ばされた気持ちだった。一発でノックアウト、絶望。しばし手が止まっていたように記憶している。
(ちなみにこの報道は、のちに誤報としった。しかし被害が尋常でないことに変わりはないし、あの絶望は確かに僕らを打ちのめした)

そうこうするうちに、新浦安の自宅の整理を終えた上司がオフィスにあらわれた。
僕は現場を同僚に任せ、上司と別室の会議室に移動した。現在把握するオフィスの被害状況、再開状況の確認。また、東京電力が電気供給制限をすることを発表していたため、その対策を検討する必要があった。
交通網が、とくにJRが機能していないためにオペレーター確保も頭が痛い問題だった。新浦安をはじめ近隣に住むオペレーターもいるが、彼女ら主婦にとっては仕事よりも家庭(とりわけ子供)の世話のほうが優先順位が高いことは容易に想像がついた。
どのような人員配置をすべきか、電力制限に対するフローの確立・・・他チームのことも考慮してさまざま整理した。僕と上司の2人であれやこれやと意見をいい、ホワイトボードにまとめていく・・・。

僕と上司は、その数時間前に一緒にランチを食べて、しかも僕は転職すると話していたのに。彼女は僕に共感の意を表していた。
その二人が、震災当日、ほかのどの社員も出社してこないオフィスで、今後の運営を企画していた。

結局その夜は徹夜となり、さらに一晩をオフィスで明かして3/14の夕方に帰宅した。
その後の勤務も泊まりとなり、しばらく忙しい日々が続いた。
平時から忙しさを解消できていなかったのだから、あたりまえだった。加えて異例事態への社内外の調整が次々に必要になる、本当に難しい日々だった。

■ その後

ネット上では、世界中が日本に注目している事が報道されていた。海外にとっては「東日本を震災が襲った」という報道であの津波が放映されているのだろうから、日本が壊滅状態と勘違いした人々もいただろう。レクイエムの気持ちで応援する人もいたのではないだろうか。

そこまでの絶望はないものの、しかし当時相当な悲壮感を関東以東の人々が感じたことだろう。テレビをつけても、報道特集、報道特集、報道特集。そして、ACのCM・・・。
「えーしー」という音声が耳障りだとクレームが出たために無音になった。「そんな神経質な」とも思ったが、無音に切り替わると、確かにあの音声は僕らに重い空気をかぶせる存在だったのかもしれないと感じた。

僕は、この悲壮感がはたして晴れる日が来るのだろうかと想像が出来なかった。
そりゃぁ復興は果たされるのだろうけれども、それが現実的なものとしてうまく想像できなかったのだ。津波が襲った地域は壊滅状態だ。原子力発電所がいったいどうなったのかハッキリ見えてこない。現場の方々は誠心誠意努力されていることを容易に想像できるので無責任なことはいいたくないけれど、しかし政府の発表や動きがハッキリしない。
おいおい、日本はこのままどうなってしまうんだ?と不安だった。
テレビで流れる映像を見ては、ホロホロと涙をこぼした。

しかし、職場にいるときにそんな悲壮感に浸っているわけにはいかなかった。
気丈に振舞わなければいけない、諸問題をどんどん片付けなければいけない、その思いが、あるいは周囲をポジティブにはげますこともあったかもしれないけれど、僕の中の被災の記憶を急速に失わせる効果もあって、嫌悪感を感じもした。

・・・一年後。
千葉県市川市に住む僕の日常は、ほとんど以前の日常に戻っている。
かつての悲壮感はほとんどない。「ない」というよりも「薄れた」が正しい。

一周年を迎え、日本中にあらためてムードが高まっている。

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【日本時代】05.その他」カテゴリの記事

コメント

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ツイッター経由で訪問し読ませて頂きました。

当時16階オフィスで目の前のパソコンのモニター画面がショッキングピンクに染まりブチッという音とともに電源が落ちたのが思い出されました。

一瞬「ズンッ」という衝撃があり、”また地震か”…程度の認識が数秒後には恐怖に変わりました。座っている椅子ごと揺さぶられ、これはヤバイと椅子を放棄し机の下にもぐりこみ、それでも体が揺れに持って行かれそうになるため机の脚にしがみつき、揺れが収まるまでじっと耐えた事。。。

耐えながら、何故か阪神大震災の時の揺れとは質が違うな…と考えてたような気がします。夫の関西転勤中に被災した震度6強直下型地震は体ごと掛け布団ごと中に浮き、畳に落とされる衝撃で目覚め、その後強い横揺れで起き上がることすらできませんでした。今回の東日本大震災は高層ビル特有の揺れ、台風に遭遇した船の中にいるような感じでした。

早いもので明日で1年ですね。あの時一緒に避難した同僚も新たな道を進み始めています。月日とともに記憶が薄れてきますが忘れる事無く、前を向いて前進していきたいですね。

お邪魔しました。

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  • こんにちは。

    僕はコールセンターでオペレーション部門のマネジャーだった元サラリーマンです。2013年より上海で中医学を学んでいます。
    →2019年の医師試験に奇跡的に合格、晴れて中医師に!
    →就職活動を始めるも、中国ビザ規定では「経験2年以上でないとダメ」、新卒じゃダメじゃん
    →ある外資系クリニックに事務系何でも屋として拾ってもらう(いまココ)

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